「終わりの始まり」
「ちょっと遅くなっちゃったな。急いで帰らなきゃ」
小学5年生の桜谷涼香は塾から自宅への帰路を急いでいた。いつもなら塾が終わったらすぐに帰るのだが、今回は親友と
長話をしてしまったのだ。気づいたときには30分以上が経過していた。
「大変、もうこんな時間。早く帰らないと」
涼香は友人と「バイバイ」と言いあって教室を飛び出した。彼女がなぜこうも急いでいるのかというと、見たいテレビア
ニメに間に合うためというのもあるが何よりも夕飯の仕度をしなければならないからだ。小学2年生になる弟は涼香が帰宅
するまで夕飯が食べられないのだ。涼香は時計を何度も見ながら自宅へ急いだ。その時、ふと公園が目についた。結構大き
な公園で涼香が自宅に向かうにはこの公園を迂回しなければならない。これがかなりのタイムロスで公園に入っていけば時
間は短縮できるが、近頃公園に変質者が出没するということで学校から暗くなってからここに入ってはいけないと注意され
ていた。勿論、涼香もそのことを知っていた。だが、公園に入るのと迂回するのでは3倍ぐらいの時間差があった。
「どうしよう・・・」
公園内の通路を進めば早く家に着ける。しかし、変質者に遭遇する危険がある。少し考えて涼香は公園に入ることにした。
「痴漢さんにみつかっても全速力で走ったら逃げられるよね」
それは子供の安易な考えだった。人とは自分が体験しない限り危険なことが如何に危険かということが真に理解できない生
き物である。涼香にもこの時間帯の公園が危険かということは理解できていた。しかし、早く家に帰らなければという焦りと、
自分は大丈夫だろうという根拠のない自信が、安全よりも効率さを優先させたのだ。とはいえ、人の気配がほとんど感じられ
ない夜の公園というのは不気味なものである。涼香も途中で段々と心細くなっていった。
「止めといた方がよかったかなあ・・・」
いまから引き返して公園を迂回するルートに変更しようかとも思ったが、もう公園に入ってしまっていては今更もどるとい
うのもどうかと思う。涼香は周りを警戒しながら無事に公園を抜けられることを祈った。しかし、その祈りも空しく涼香に目
をつけている男がいた。この公園に徘徊する変質者である。
「ほう、なかなか可愛いじゃねーか。しかも、髪の色がブルーとはな」
変質者は涼香に気づかれないように隠れながらじっくりと彼女を観察した。どうやら涼香の髪の色に興味を持ったらしい。
別に涼香は髪を染めているわけではなく、生まれた頃から髪の色はブルーだったのだ。
「さて、どうしてやろうか」
男はニヤニヤと笑いながら作戦を考えた。近頃、夜の公園に足を運ぶ者は少なくなったが、男にとっては目撃される危険が
低くなって有り難いことだった。たとえ、人通りが少なくなっても絶対に誰も通らないわけもなく、涼香のように危険を承知
で公園に入る者もいるのだ。この公園は結構広く、大声をあげられないように注意すれば婦女子を襲っても周りに気づかれる
恐れは低かった。
「やっぱり背後から襲うのが一番だな」
男は涼香に気づかれないように彼女の背後に忍び寄った。
「本当はもうちと年上がいいんだがな」
まあ、この際贅沢は言うまい。男は興奮を抑えながら一歩一歩涼香に接近した。そして、涼香のすぐ後まで近づいた時、背
後に気配を感じた涼香が振り返った。
「ちっ」
男は大声を出される前に涼香の口を塞ごうと手を伸ばした。驚いた表情をしている涼香に男の手が伸びる。その時、男の頭
を何者かが掴んだ。
「な、なんだ?」
不測の事態に男は動揺した。さっきまで周囲に人はいなかったはずだ。しかし、男の頭を鷲掴みにしているのは明らかに人
の手である。が、人ではなかった。なぜなら頭を掴んでいる手の握力は人間では考えられないぐらい強いものだからだ。そう、
男の頭を掴んでいるのは人間ではなかった。全身が薄い茶色の見たことのない奇怪な生物である。
「な・・・なに、あれ・・・」
涼香は恐怖に身体が震えた。塾を出るときにトイレに行ってて良かった。でなければ漏らしているところだ。恐怖のせいで
逃げることも大声を出すこともできない。それを凝視していた怪物は口から涎を垂らし始めた。まるで獲物を前にした肉食動
物のように。
「じょ、冗談よね」
涼香の目にも怪物が自分を食そうとしているらしいのがわかった。怪物は男を放り投げるとジリジリと涼香に迫った。投げ
られた男は腰を強く打ったようだったが、そんなことには構わず一目散に逃げていった。一人残された形となった涼香だが目
の前の恐怖で頭が一杯で男が逃げていくのを見ても、まるで蛇に睨まれた蛙のように自分もそれに追随することができなかっ
た。逃げそびれた涼香に怪物の大きく開いた口が迫る。
「ひっ・・・、い、いや・・・、やだ」
涼香の目に涙が溢れてきた。怪物はいまにも彼女に食らいつきそうだ。そして、
「ひえぇぇぇぇぇぇぇっ!」
涼香は頭を抱えてうずくまった。怪物が自分に襲いかかろうとしているのを見たからだ。怪物は涼香の両肩を掴もうとした
が、一瞬早く彼女がうずくまったため空を掴むことになった。どうやら怪物は涼香の行動を全く予期しなかったようでそのま
まバランスを崩して倒れてしまった。
「えっ?」
無意識に取った自分の行動で窮地を脱したことを知らない涼香は一瞬呆然となったが、すぐに事態を把握した。思わぬラッ
キーである。
「逃げなきゃ」
さっきは逃げそびれたが、せっかくのチャンスを不意にはできない。涼香は怪物が起き上がる前にその場から逃走した。そ
の後はひたすら走った。とりあえず公園から出よう。公園を出さえすれば誰かがいて助けてくれる。涼香はそう信じた。信じ
るしかなかった。だが、
「きゃっ!」
涼香は何かに躓いて転んでしまった。地面に少し露出した石に躓いたのだ。
「痛たたた・・・」
右の膝から血が出ていた。我ながら情けなくなった。よく映画とかで追われている子供や女性が何かに躓いてしまうシーンが
あるが、そんなに都合良く躓くかと涼香はいつも馬鹿にしながら見ていた。それがまさか自分が同じ目に遭うなんて。だが、い
まはとにかく逃げるのが先決だ。足が痛むのを我慢して走り出そうとするが、あわてて駆けだしたため足がもつれてまた転んで
しまった。しかも、今度は顔面をもろに地面に叩きつけていた。顔を起こすと鼻血が出てきた。
「痛いよぉ・・・」
涼香は泣きかけたが、背後から聞こえてくる怪物の足音に泣いている場合ではないと、また走り出そうとした。そこへ、怪物
がいきなり走り出して涼香に襲いかかった。振り返った涼香は、怪物が口を大きく開けて自分に襲ってくるのを目にするが、彼
女にはどうすることもできなかった。顔を背け、目をきつく閉じる涼香。もう、駄目と観念しかけた時だった。ブスッと何かが
突き刺さる音がした。それは怪物が涼香の頭を齧り付く寸前だった。怪物の息が涼香の耳に吹きかけられている。その気持ち悪
さに涼香は背筋が凍りつくのを感じたが、どういうわけか怪物は一向に襲ってくる気配がない。恐る恐る目を開けて怪物の方に
視線を向けると、グロテスクな顔面が至近距離で迫っていた。
「ひっ!」
あまりの恐怖に涼香は腰を抜かしてしまった。ガタガタ震えながら怪物を見上げると、怪物はピクリと動かなかった。?と思
っていたら怪物の体に剣が突き刺さっているのが見えた。やがて、怪物はドサッと倒れて緑色の水分になって土に還った。怪物
に剣を突き刺したのは大人の男だった。30代中ごろぐらいだろうか。男は怯えている涼香を一瞥すると、そのまま立ち去ろう
としたが、急に胸をおさえて苦しみだした。片膝をついてゴホッゴホッと咳き込む口をおさえる男の右手には真っ赤な血がつい
ていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
さっきまでは怯えて声も出せなかった涼香だったが、男が血を吐いたのを見て慌てて駆け寄ろうとするも腰が抜けているため
うまく移動できない。やっとこさ男のもとに辿り着くも男の咳はひどくなる一方だった。
「え、えと、とにかく救急車」
涼香は大急ぎで携帯を取り出して119しようとしたが、男がそれを制止した。
「待て、俺に構うな……」
そう言って男は胸を押さえながら立ち去ろうとするが、また血を吐いて膝を屈した。涼香はただおろおろするだけだったが、
とにかく男を休ませようとベンチに横にさせることにした。
「俺に構うな…と言った…だろ」
「そんなこと言ってられる状態じゃないでしょ」
涼香は渋る男を強引に説き伏せて近くにあったベンチに座らせた。本当は一刻も早く救急車を呼ぶべきなのだろうが、男は頑
なにそれを拒否した。
「でも、このままじゃ死んじゃうかもしれませんよ」
「かも…じゃない…俺は死ぬん…だ…そ…それは前から覚悟…をしてい…た」
苦しい息の下から死ぬのを覚悟していたという男。なにか事情があるのだろうか。涼香はそれを聞いてみることにした。
「もしよかったら私に話してくれませんか。力になれるとは思いませんけど……」
男はしばし涼香の顔を見つめていたが、やがて口を開いた。
男は魔力士という魔力を武器に込めて戦う人間らしい。精霊と契約することで強大な力を得ることができる。彼らはその力で
人間が怪物や妖怪と呼ぶ未知の生物と戦ってきた。彼もその一人でいままで何体もの未知の生物を葬ってきた強者である。彼ら
によって人類は未知の生物の襲撃から守られてきた。だが、その平穏が破られるかもしれない事態が起きた。魔宝皇珠と呼ばれ
る魔力を帯びた宝石の破片の封印が解かれたのである。魔宝皇珠は元々神が力の弱い人間のためにつくったもので、どんな願い
でも叶えてくれるとされている。だが、神は無条件で魔宝皇珠を人間に与えるほど甘くはなかった。魔宝皇珠は人間の感情をエ
ネルギー源としており、困っている人を助けたいといったプラスの感情なら良いが、己個人の欲望や憎しみといったマイナスの
感情を取り込めば食いすぎの状態となるのである。無論、魔宝皇珠は食いすぎであっても、それを告げたりしない。そして、取
り込んだエネルギーが許容範囲を超えると、魔宝皇珠はそれまで取り込んできたエネルギーを一気に放出するのだ。もし、そう
なれば周囲数百キロは灰燼に帰す。前に一度臨界点に達しかけた時があり、爆発を避けるために魔宝皇珠は7つに分割された。
そして、二度と使われることがないようにそれぞれが封印されたのだ。だが、破砕された影響で魔宝皇珠は自己防衛本能を持つ
ようになり、自らを核としたエネルギー鉱物生命体ジュエルモンスターを作りだしたのだ。そして、自力で封印を破って再び世
に出たというわけだ。男はある事情で魔宝皇珠の破片を回収しているという。だが、見てのとおり男は戦える状態じゃない。多
分、かなりの無理をしてきてその反動なのだろうと涼香は推測した。
「やっぱり病院に行かれた方が……」
だが、男は首を横に振った。何か言いたいようだが、もはやまともに喋れる状態ではなかった。もう一刻の猶予も無いと涼香
は携帯電話を手にとって救急車を呼ぶことにした。男が何と言おうと、目の前で苦しんでいる人間を見殺しにする理由にはなら
ない。男は涼香の手を取るが、もう声がでないようだ。何かを伝えたいだろうとはわかるが、とりあえずは救急車を呼んでから
だ。だが、涼香がダイヤルしようとした時、不意に彼女の脳裏に男の声が聞こえてきた。
『聞こえるか? 俺の声が』
「えっ?」
『驚かしてすまない。もう、声が出ないから君の心に直接話しかけている』
「私の心に?」
『そうだ、静かに聞いてくれ。俺はもうすぐ全身から血を噴き出して死ぬ。さっきも言ったようにそれは前から覚悟していたこと
だ。できたら魔宝皇珠の破片を回収して今度こそ完全に永久封印したかったのだが、どうやらそれは次代に託すことになりそうだ。
君に頼みがある。俺が死ねば精霊ヴォルフザームとの契約が切れる』
男は首にかけていた星の形をしたペンダントを外して涼香に渡した。
「これは?」
『その水晶の部分に精霊が宿っている。俺が死んだ後にそれを握って念じることで精霊と契約することができる。君には新しい契
約者が現れるまでそれを預かっていて欲しいんだ。間違っても君が契約しないでくれ。それは……』
と、男が言いかけた時だった。いきなり男の側頭部から血が噴き出たのである。よろめく男の体を涼香はあわてて支えた。
「だ、大丈夫ですか?」
『フッ、どうやらここまでのようだな。さあ、行ってくれ。後は頼んだぞ』
男はかなり無理して笑顔を作ろうとするが、もうそんなこともできないくらい男は弱っていた。
「貴方はどうするんです?」
『いいから行け。俺は自分の体が崩れ落ちる無様な様を他人に……』
見られたくないとでも言うつもりだったのだろう。言い終える前に男の体はいたいけな少女の前で破裂してしまった。それは先
ほどの男の言うような全身から血が噴き出るといったみたいな生易しいものではなく、体の内部に爆弾が仕掛けてあったんじゃな
いかって疑うぐらい物の見事に破裂しちゃったのである。当然、いきなりそんな光景を見せつけられた涼香は悲鳴を上げる。
「きゃあああああっ!!」
まさに悪夢だった。血が噴き出しただけでも少女にしたらかなりショッキングなのに、人間の体が内部から爆発したかのように
破裂して、血はもちろん内臓や脳までもが飛び出してきたのである。当然、涼香の顔や服にもべったりと血などが付着するわけで、
ホラー映画さながらの情景に涼香の顔は完全に引きつっていた。
何とか落着きを取り戻した涼香が家に着いたのは夜9時を過ぎた頃だった。ブスッとした顔の弟の涼太が出迎えた。
「遅いよ、姉ちゃん。僕、お腹空いちゃった」
「ごめんごめん。すぐご飯にするから」
涼香は謝るも、疲れ果てていてとても今から料理をする元気はなかった。
「今日はお姉ちゃん疲れているから何か出前取ろうか?」
と言うと、さっきまでふくれっ面だった涼太の顔がパッと明るくなった。
「本当?」
単純な弟だ。
「うん、ピザでも寿司でも丼でも好きなもの頼むといいよ」
「わーい」
大喜びで居間に駆け走りピザのメニューを広げる弟。
「お姉ちゃんは何にする?」
「お姉ちゃんの分はいいよ。涼太だけ食べて。お姉ちゃんはお風呂入って寝ちゃうから」
ここまでくるとさすがに弟も心配になる。
「どっか体悪いの?」
「ううん、ちょっと疲れただけ。心配しなくていいよ」
「ふーん」
すぐ納得する弟。本当に単純な弟だ。姉としてちょっと心配になりながらも涼香は脱衣所に向かった。鞄から血まみれの服を取り
出して洗濯機の中に入れる。体育の授業があって良かった。体操着に着替えて帰れた。次に体操服も脱いで入浴タイム。涼香はいつ
も以上に体を念入りに洗った。そうでないと血で穢れた己が体を洗浄できないと思ったからだ。しかし、いくら洗っても穢れは取れ
なかった。いや、血なら帰る前にハンカチで拭っている。その何ていうか邪気とか怨念とかが体に染みついている気がしてならない
のだ。無理もない。目の前で人間が破裂して内臓とかが飛散するのを目撃したのだから。
「今夜は悪夢決定ね……」
浴槽の中で涼香は深くため息をついた。
翌朝、涼香は近所で男性の惨殺体が発見されたというニュースを目にした。全身に動物の爪で引っ掻かれたような傷があるらしい。
いつもなら怖いねで済ますが、昨夜あんな体験をしてしまった涼香はこれが人間の仕業ではないかもしれないと思った。しかし、昨
夜の怪物は死んだはずだ。他にもいたのか? わからないが、自分たちも襲われる可能性はある。現に涼香は襲われている。結局、
あの時の事は涼太には言っていない。言ったところで信じないだろう。だから、自分の胸の内に秘めておく。願わくば、もうあんな
ことに巻き込まれたくないものだ。
「でも……」
涼香は首にかけた星型のペンダントを手にとって眺めた。昨夜、あの男から渡された物だ。次の契約者が現れるまで預かってほし
いと男は言った。ということは、否応なく涼香は巻き込まれることになる。涼香はいままでの日常が壊されるかもしれないという不
安に襲われた。杞憂であってほしいと思う。だが、すでに運命は涼香を普通の生活から切り離そうとしていた。
その日の放課後、涼香は塾が休みなので友人と一緒に帰ることにした。その途中で、二人は神社に寄ることにした。実は、学校で
涼香はその友人に、
「私、神社で猫をこっそり飼っているんだけど見に来ない?」
と誘われていたのだ。何でも捨て猫だったんだが、家では飼えないので神社でということらしい。猫好きの涼香は二つ返事でつい
ていくことにした。ところが、楽しみにしながら神社に行った涼香が見た物は無残にも切り刻まれた猫の死体だった。
「な、なに…これ…」
あまりの惨状に愕然となる涼香。隣の友人の顔を見たら、その眼に涙が浮かんでいた。
「ひ、ひどい……」
両手を口にあてて今にも泣き出しそうな顔で猫の死骸を見る友人になんて声をかけていいか涼香はわからなかった。とりあえず死
体を処理しなければとは思うが、埋葬するにもスコップが無いし何より死体を素手で触るには抵抗があった。どうしようか悩んでい
ると、神社の関係者らしき中年の男性が姿を見せて涼香たちに声をかけてきた。
「どうしたんだい? お嬢ちゃんたち」
やさしそうな感じの男性に涼香は事情を話すことにした。だが、ふと男性の足下に目をやった涼香は彼の影に顔色を変えた。男性
の影は明らかに人のそれではなく異形のものだったのだ。
「月島さん、こっち」
涼香は友人の腕を掴んで駆けだした。
「えっ? ちょっと桜谷さん」
月島が戸惑いの声をあげるのを無視して涼香は強引に彼女の腕を引っ張っていった。石段を下りて鳥居を抜けて神社の境内から出
たところで涼香はストップした。後ろを振り返ると追ってきていないようだ。
「どうしたのよ。いきなり走り出したりして」
「……」
涼香は月島の問いに答えることができなかった。彼女が何も答えられずにいると、月島はその手を振り切って神社に戻ろうとした。
「待って」
涼香は慌てて呼び止めたが、月島は聞く耳を持とうとしなかった。
「だって、あの子をあのままにしておけないでしょ」
そう言うと、月島は神社へと戻っていった。涼香は彼女を追いかけようとするが、怖くて足が動かなかった。男性の影の事を月島
に話そうにも信じてもらえないのはわかっているし、無理に引き止めても理由が説明できないのでは意味がない。涼香はしばらく月
島を追いかけようか否か迷ったが、なかなか答えが出なかった。今更、追いかけたところで手遅れだろうし、かといって知らんふり
して帰ることもできない。そうこうしているうちに月島が戻ってきた。
「月島さん。よかった無事だったんだね」
友人の無事な姿を見て涼香は安堵した。そんな涼香を月島はクスッと笑って、
「無事に決まっているじゃない。何もあるわけないでしょ」
「それならいいけど、それであの猫どうしたの?」
「猫? なにそれ」
「えっ?」
その時、涼香は月島に不審を感じた。猫のことで戻っていったのに、なにそれはないだろ。涼香は念のために月島の影に目をやっ
た。すると、彼女の影もさっきの神社の中年男性みたいに何か変な生き物の形をしていた。
「う、うそ……」
友人の身に何が起きたか察して涼香は絶句した。しかし、最悪の事態を想像したくない涼香は念のために確認することにした。
「ねえ、ゆかりちゃん」
「ん、なあに?」
「!」
これではっきりした。月島の下の名前はゆかりではない。つまりは涼香の目の前にいる月島は真っ赤な偽者ということだ。涼香の
脳裏に昨夜の悪夢が蘇る。
「どうしたの? 桜谷さん」
笑顔で迫る月島。涼香は顔を引きつらせながら後ずさりした。
「い、いや…来ないで……」
「何で逃げるのよ。まるで私が化け物みたいじゃない」
「な、なに言ってるの……」
涼香は月島の影を指差した。指された方に目をやって月島はようやく自分の影が変なのに気づいて苦笑した。
「あらあら、私としたことが」
月島の目が光ると、彼女の影は人型になった。
「これでよしって手遅れだな」
途中から月島の声が変わった野太い男の声だ。その直後、月島の額にひびが入って彼女の体を縦に裂いた。
「ひっ!」
涼香は咄嗟に目をそらした。確かに人の体が裂けて中身が見える光景は少女が見るのには不適当だ。そして、裂けた月島の中から
怪物が姿を現した。
「ガシュガシュガシュー」
と、奇妙な鳴き声とともに現れたのは両手に鉄の爪が生えた怪物だった。この怪物は自分が殺害した人間に変身することができる
のだ。今頃、月島は見るも無残に切り刻まれた姿で倒れていることだろう。そして、涼香にも怪物の魔手が迫ろうとしていた。
「い…いや…誰か…た…助けて…」
大声を出せば助けが来るかもしれないが、恐怖で涼香はガチガチと震えて声もまともにでなかった。このように怯える獲物を切り
刻むのが怪物の何よりの楽しみである。怪物は右腕を振り上げると、涼香めがけて振り下ろした。
「きゃーっ!!」
怪物の爪が涼香の左腕を掠めた。爪についた涼香の血を舌で舐める怪物。
「誰か、誰か助けてよぉ……」
とうとう、涼香は泣き出してしまった。しかし、泣いたところで怪物が躊躇するわけもなく、容赦なく腕を振り回して涼香を切り
裂いていった。涼香は泣きながら何度も許しを請うが、それは怪物の嗜虐趣味に油を注ぐことにしかならなかった。全身を切り刻ま
れて起き上がることもできなくなった涼香は、自分に止めをさそうと近づく怪物を見て自分の死を覚悟した。
(どうして、私がこんな目に……)
思えば昨日の怪物との遭遇がケチの付け始めだったかもしれない。と、ここで涼香はあの時自分を助けてくれた男から渡されたペ
ンダントを思い出した。そのペンダントに宿る精霊の力を得れば怪物すらも倒すことができる。涼香は首にかけているペンダントを
両手で握りしめて祈った。
(お願い、私に力を……)
すると、ペンダントから強い光が発せられて辺りが光に包まれた。
「ガッ?」
いきなり、強い光が発生したことで怪物の目は眩んでしまった。その間に涼香は精霊との契約を進めた。
「わが名は精霊ヴォルフザーム。我と契約を結ぶのは主か?」
ペンダントから聞こえてくる声に涼香は「はい」と答えた。
「良かろう。我の力を主に与えよう。ただし、主には覚悟をして貰わねばならぬ」
「覚悟?」
精霊の中でも最強クラスの力を持つヴォルフザームと契約した者にはある覚悟を決めることが必要だった。詳細を聞いた涼香は昨
夜の男が言っていた言葉を思い出した。
『君だけは契約しないでくれ』
さすがに涼香は精霊との契約を躊躇した。しかし、契約しなければ確実に殺されてしまう。意を決した涼香は精霊と契約を結ぶこ
とにした。
「では、契約の魔法を詠唱するのだ」
涼香は教えられた言葉を言った。
「contract」
すると、ボロボロだった涼香の衣服が消えて別のまったく違う衣装が彼女の体に着用された。
「ガガッ?」
ようやく視力が回復した怪物は涼香が変身していることに面食らった。涼香は弓と矢を出現させると怯んだ怪物に矢を向けた。
「私は純白の戦弓士・桜谷涼香。罪も無い人々を無差別に殺戮する邪悪なる者よ。今こそ討ち果たしてくれん!」
涼香の視界に照準器が映し出され怪物をロックした。
「貫け、英雄の矢!」
涼香が手を離すと矢はものすごい勢いで射出された。摩擦熱で真っ赤になった矢は怪物の体を突き破った。
「ガ…ガシュ……」
怪物はズーンと倒れると体中から蒸気を出してやがて跡形もなく消えた。
「や、やった……」
怪物が消滅したのを確認した涼香は自分が助かったことに安堵したが、彼女の傷もそうとう深かった。涼香は両膝を地面につけ
ると、そのままうつ伏せに倒れた。彼女が気を失ったと同時に変身も解けた。その直後、
「おい、あそこに誰か倒れているぞ」
何人かの男が倒れている涼香を発見した。さっきの涼香の悲鳴を聞きつけて来たのだ。その中の一人が涼香を抱き起した。
「しっかりしろ。ひどい怪我だ。誰か救急車を頼む」
男の指示に仲間が携帯電話で救急車を要請した。しばらくして到着した救急車に涼香は病院まで搬送された。
涼香が目覚めたのは病院のベッドだった。医者が優しく声をかける。
「気が付いたか?」
涼香はコクッと頷くと周囲を確認した。医者と看護師の他に二人の見知らぬ男がいた。
「ちょっと失礼」
男の一人が医者と看護師の間に割って入り、涼香に警察手帳を見せた。
「起きたばっかりで悪いんだけど、ちょっとお話聞かせてもらえないかな?」
「はい……」
涼香は返事したものの本当の事を言っても信じてもらえないだろうとは思っていた。だから、いきなり襲われて犯人の顔も見
ていないと言うしかなかった。尋問が終わって医者と刑事が病室を出ると、それと入れ替わるように涼太が入ってきた。
「姉ちゃん……」
涼香の顔を見るなり涼太は目を潤ませて飛びついて「わーん」と号泣した。
「ごめんね心配かけて。もう大丈夫だから。ほら泣かないの。男の子でしょ」
「だって、だって……グスン」
しょうがないなあってな感じでため息を吐くと、涼香は涼太の頭を優しく撫でてやった。時計を見ると、すでに午後10時を
過ぎていた。涼香にとって最悪の長い一日が終わろうとしていた。だが、涼香はわかっていた。これが始りにすぎないことを。
そして、終わりの始まりだということも。
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