『BASEBALL1』
体を動かすという点においては武道もスポーツも同じである。柔道のようにスポーツに組み込まれているものもある。柔道が世界に普及したのは嬉しいけど、その反面スポーツ化したことでどこか俗っぽくなった感は否めないとは、10年以上も前に逃げられた嫁さんの携帯番号を未だにアドレスの一番最初にしている生物教師の弁だ。それはさておき、武道の熟練者が言い換えれば運動神経が抜群な人だとすれば、それはスポーツ万能だとは言えないだろうか。少なくともそういう人が一人はいることを僕は知っている。その人物はいま僕の目の前で粉砕バットを両手に持って素振りをしていた。粉砕バットって何だ?って?粉砕バットとは写真部の連中が使っている用語で、彼らが部活で使っているバットと区別するために野球のバットを粉砕バットと称しているのだ。なぜ粉砕バットかと言うと、粉砕するためのバットだからだそうだ。確かに不良とかがバットで物を壊したりするが、普通に野球のバットでいいのではないだろうか。だが、いまは野球のバットを粉砕バットと呼んでも差し支えない気がする。なぜかと言うと……
「出番よ、みちる。かっとばしってやってーっ!」
僕の隣に座っている女子がバットを持って素振りをしていたみちるに声援を送った。みちるは今日、女子野球部の助っ人として出場していた。彼女がその手に持つバットをいつ粉砕用に使うか気が気でならない。杞憂とは思いたい。が、バットで素振りするみちるは楽しげだった。それが体を動かすことへの楽しみならいいんだけど。前のバッターが三振に倒れて、みちるがバッターボックスに立つ。この後、普通にバットを構えるかと思いきや、みちるはバットをピッチャーの方へ向けるという行為に出た。敵味方双方がざわめき立つ。いわゆる予告ホームランだ。野球漫画の世界ならともかく、現実世界で予告ホームランが成功したという事例はほとんどない。ホームランを予告するという行為は相手投手への挑発でもあるので、投手からすれば普段以上にホームランを打たせまいとするからだ。
「大丈夫かな…」
隣に座っている女子が心配そうに言う。ホームランを予告した以上、三振やフライはもちろん、ヒットでさえも失敗となる。また、同じホームランでもバットで指し示した方向から大きく逸脱しても具合が悪い。成功すれば喝采を浴びるが、失敗すれば三振する以上に恥ずかしい。恐らく失敗するだろう―これは衆目の一致するところである。なぜなら、相手の投手はこれまで一本のヒットも許していないのだ。みちるも第一打席はキャッチャーフライ、第二打席もライトゴロに倒れている。そんな相手に予告ホームラン?誰もが無謀だと思うだろう。しかし、僕はみちるの隠れた意図を見抜いていた。みちるはバットを投手の方に向けている。誰もがその後方の向こうへホームランを飛ばすという意味だと解釈するだろう。しかし、僕は違う。みちるは相手投手の頭を狙っているのだ。仮にホームランが打てたとして得られる点は1点。現在、みちるのチームは5点のリードを許している。1点取ったぐらいでは形勢をひっくりかえせない状況だ。ならば相手チームの主柱であるあの投手を潰してチーム全体の打率を上げた方が得策だ。とすれば、あの予告ホームランの宣言行為にも意味がある。相手を挑発して自尊心をくすぐる事で、真っ向勝負にいくよう仕向けたのだ。そして、投手が振りかぶった。誰もが固唾をのんで見守る。そして……。
カキィィィィィィン!!
見事にバットの芯にとらえられたボールは相手投手めがけて飛んでいく。
「!」
恐らく誰もが凍りついただろう。だが、相手投手はギリギリのところでかわして無事だった。ボールはそのまま飛んで行ってホームラン。一瞬の静寂、そして歓声。
「やったぁ!みちる、すっごいよ!」
これまでヒットの一本も打つことができなかった相手投手に対して予告ホームランの達成。チームの士気は否が応にも高まる。相手投手を潰すという隠れた意図もどうやら達成できたようだ。腰を抜かしてる。あれじゃあ降板せざるを得ないだろう。ホームを踏んで意気揚々と戻ってくるみちるをチームメイトがハイタッチで迎える。
「すごいよ、みちる!」
「本当、有言実行ね!」
「私、姫前さんのファンになりそう!」
「私も!サインもらっちゃおうかしら」
「まったく、みちるはそんじょそこらの男どもよりも頼りになるわね」
「そういや、男子が言ってたわよ。“姫前が男だったら助っ人頼んでたのにな”って」
「それなら私も聞いたことある。みちるのこと、女にしておくのはもったいないって」
「そうそう、そしたらあの子が…」
と、6番レフトの付き合っていた彼氏が二股をかけていたのが判明して修羅場を演じたという向島智子さんが僕を指差した。やばい。
「“姫前さんは見た目が女なだけで中身は男以上に男だから。実質、男だね”って言ってたわよ」
向島さんの言葉でみちるの頭からピシッと音がしたような気がする。僕は瞬時に身の危険を察して逃亡を図った。だが、ベンチを立って逃走しようとした途端に肩をものすごい力で掴まれた。
「まだ、試合が終わっていないのにどこ行く気?」
みちるだ。くっ、読まれていたか。
「あの、ちょっとトイレに……」
「さっき、行ったばっかでしょ。それより、ホームラン打ったのに何か言うことないの?」
「あ、そうだね。おめで……」
と、振り返ると、みちるはバットを手に持っていた。この極めて短い時間にバットを手にしているなんて。とてつもない早業だ。
「ちょっとついてきてくれるかしら?」
「でも、まだ試合…」
「大丈夫よ。あの投手、腰を抜かしているみたいだから交代とかなんかで時間がかかるわよ」
「でも、やっぱし離れるのは…」
「いいから来なさい!」
有無を言わさずみちるは左手で僕の首根っこを掴んで引っ張っていく。右手には野球のバット。いや、ここでは粉砕バットと言っておこう。人目のつかない場所で何が粉砕されたかは言うまでもない。
−−−−−−
男子○○部、女子○○部とあるように、運動系の部活動は男女別で行われるものが多い。よって、男子が女子の、女子が男子の部活動に助っ人として参加するのは不可能と言っても過言ではない。だから、男子野球部がみちるに助っ人を頼むのはよほどの事情があるのだろう。よほど、というのは他にも理由がある。これは野球部に限った話ではなく男子運動部全体に言える事なのだが、どの部もそんなに真剣に部活動をしていないのだ。全国大会はもちろん地方大会ですら何年も勝てないような部ばっかだ。勝つという事に執着が見られない。そんなわけだから、わざわざ助っ人を頼んでまで勝とうとはしなかった。それが今回に限って、しかも女子のみちるに対して…。
「いやよ、男子の助っ人なんて。ってか、無理じゃない」
と、みちるが難色を示すのも無理からぬことだ。それでも野球部は執拗に食い下がる。
「頼むよ、今度の試合だけでいいんだ。な?この通り」
その熱心さを練習に向ければ助っ人に頼らなくてもよくなったろうに。しかし、こうも熱心に頼まれては我らがみちる姐さんは無碍にはできない御人でござんす。ただ、問題が一つ。
「でも、女の子がチームに入っていいの?」
そう、みちるは女の子だ。マネージャーならともかく選手として出るには無理がある。そしたら、うちの野球部で一応エースの座についている家が雑貨屋で漫画家志望の妹がいる杉ノ下尚人くんが…
「大丈夫、姫前はそんなに胸が大きくな……ズボッ(杉ノ下くんの眉間にみちるの人差し指が第二関節まで突き入れられた音)ドサッ(杉ノ下くんが目を見開いたまま倒れた音)」
同期の桜がまたひとつ散った。
「胸はサラシでも巻いておけばいいか。髪をまとめて帽子で隠せば…。いいわ、助っ人になってあげる」
「「「おお、助かるよ」」」
まさに喜色満面の野球部。しかし、君ら自分とこのエースが失われた事に気づいてないか?
「姫前が加わってくれたら杉ノ下の犠牲なんて安いもんさ」
「ああ、エースって言ったって他にいなかっただけだもんな。アハハハハ」
「これで俺たち助かったな」
「本当だ、命拾いしたよな」
ん?助かった?命拾い?どういう意味だ?
「ちょっと、それどういう事?」
みちるも同じ疑惑を抱いたようだ。野球部は顔を見合わせると真相を語りだした。
「実は今度の試合の相手、獄悪高校なんだ…」
獄悪高校。名前を見てもらえばどんな高校か説明は不要だろう。でも、だからって普通に試合する分には問題は無いと思うのだが。ちょっとスポーツマンシップに欠ける部分はあるだろうが、うちの男子野球部は卑怯な手を使うまでも無いチームだ。いくら彼等とて試合で相手チームを殺戮するような事はしないだろう。そのことを指摘すると案の定、問題はそれだけじゃなかった。本当のところは部員の一人が付き合っている彼女が二股をかけていて、そのもう片方の男が獄悪高校野球部のエースだったのだ。自分の女が不倫していたと知ったその男は当然のごとく激怒、紆余曲折の末に次の練習試合で勝たなければ落とし前をつけなければならない事になったという。しかも、その時は部員全員連帯責任というのだ。なるほど、二股かけられた部員一人の命で済むなら問題ないが、連帯責任となると他人事ではないわな。
「なるほど、だいたいの事情はわかったわ。ようするに勝てばいいんでしょ。まーかせて。選手兼コーチ兼監督で参加したげる」
「「「へっ?」」」
「まずは鬼コーチになって、あんたらを一から鍛え直してあげるから覚悟しなさい」
「「「お、お手柔らかにお願いします」」」
「よろしい、じゃまずは相手チームにご挨拶に行かなくちゃね」
ご挨拶?
「そ、敵情視察も兼ねてね。ついでに宣戦布告もしておきましょうか」
待って、試合は決まっているんだからそんな布告は必要ないんじゃ…。
「口上は何にしようかな」
口上って…決闘を申し込むんじゃないから。ダメだ、聞いてない。僕らは顔を見合わせた。血に飢えた狼が屯する場所に獰猛な虎が入り込んだらどうなるか。そして、その中に小さな兎が紛れ込んだら……。食いちぎられるのを知って行くほど僕は酔狂ではない。ここは逃げた方が得策だな。他の連中も同じ意見のようだ。言葉こそ発しないものの弱い草食動物同士なので相通じるものがあるのだ。よし、そうとなれば実行あるのみ。みちるは口上に使うセリフを考えるのに気を取られ僕らの企みには気づいていないようだ。
「んー…やあやあ我こそは…ちょっと違うな」
ちょっとどころではない。彼女は何か根本的に勘違いしているようだ。しかし、いまはありがたい。気を取られている隙に逃げよう。
「そうだ、これがいい」
ん、もう決まったのか?まずいな。
「“ぶっ殺す”」
……。あまりにもストレートな物言いに僕は固まってしまった。
「あの、あまりそういう火に油を注ぐような事は言わない方が……」
僕らはあくまで試合で勝負するのだ。殺し合いをするわけじゃない。
「バカね。そんな事ぐらいわかってるわよ」
え?じゃ…。
「あたしが“ぶっ殺す”と言ったのは、いまこの場から逃げようとした奴に対してよ」
みちるの眼光が鋭く光る。やばい、狩る者の目だ。
「逃げるだなんて、君を置いてそんな事するわけないじゃないか」
野生の勘とでも言うべきか、みちるの勘の鋭さに背筋が凍る。
「そう、まあいいわ。今日はここで解散!特訓は明日からよ」
「えっ?皆で行くんじゃないの?」
「こんな大勢で行ってどうすんのよ。行くのはあたしとあんただけよ」
待って、なんで僕が?
「嫌なの?」
いいえ、喜んでお供させていただきます。
−−−−−−
みちるはいったん家に帰ると、私服に着替えてから出てきた。男物の服装に髪を帽子で隠している。外からはわからないが、胸にサラシを巻いていると思われる。思われる、というのもみちるのバストサイズではサラシをしてもしなくても…いや、やめておこう。勘の鋭いみちる姐さんが隠そうとしても隠しきれない殺気がこもった笑顔でこっちを見ている。
「じゃ、行きましょ」
「うん、でも、僕まだ着替えてないよ」
「あんたは別にいいじゃない。試合に出るわけじゃないんだから」
そりゃそうだけど……。
「ぐだぐだ言ってないで行くわよ」
僕は渋々ついていった。僕らが向かったのは相手チームの学校ではなく、駅近の商店街にあるゲームセンターだった。そこは獄悪高校の生徒のたまり場として有名だった。なるほど、確かに中にいる連中はどう見てもカタギじゃない。野球部の人たちはどこかな?なるべくならあまり中には入りたくないな。って思ったら、みちるが先へ先へと進んでいくではないか。あわてて後をついていく。女の子がそれもよその高校の生徒が来るのがよほど珍しいのか、ゲームの手を止めてこっちを見ている奴もいた。中には口笛を吹いている奴もいる。中にいる連中はどれもスキンヘッドやモヒカンといった奇抜な髪型をしている奴が目立つ。顔もペイントしていてまるで核戦争で荒廃した世界に跋扈するならず者たちみたいだ。……とても同年代とは思えんな。僕は目を合わせないように俯き加減でみちるについていった。でも、会った事も無い連中をみちるはどうやって探す気だろうか。
「うちの野球部に聞いたんだけどね、ここの連中はボールを持ち歩いているそうよ。そんで時々、キャッチボールとかするみたい」
店内で迷惑な。
「奥の方にちょっとしたスペースがあるみたいよ」
それでも迷惑だ。って事は連中は奥の方にいるのか。奥の方に行ってみると、それらしき一団がいた。5、6人ぐらいで真ん中に位置している男が野球のボールをバウンドさせて遊んでいた。
「獄悪高校の野球部ってお前ら?」
何の挨拶も無しにいきなり居丈高に言うみちるに獄悪高校野球部(と思わしき)の面々は一斉にこちらを睨みつける。
「あんだ?てめぇらは?」
四方八方不良だらけの中で一斉にメンチ切られたら普通ならビビるだろう。女の子なら尚更だ。しかし、みちるはそんな事ぐらいで臆するようなタマじゃない。
「お前らと今度の日曜に対戦するの、あた…俺らのチームなんだけど。ちょっと挨拶でもしておこうかと思ってな」
女の子とバレない様に男口調だ。
「挨拶だぁ?てめぇんとこのクソが俺の女にちょっかい出しやがったんだぞ。今更、挨拶もクソもねえだろうが。忘れてねえだろうな?試合で俺らが勝ったら、
てめえら全員連帯責任だってのをな!」
「そっちこそ、こっちが勝ったら俺らに頭を丸めて土下座して泣きながら許しを請うて一生忠誠を誓うって約束忘れてないだろうな?」
「ちょっと待てやコラァ!いつそんな約束したぁ!?」
「あれ、違った?」
こっちに聞かれても困る。
「ふざけた野郎だ。俺たちをなめてんな。おい!」
男(名前を知らないので不良Aとしておく)は傍にいた男(こちらは不良Bとしよう)に声をかけると、不良Bは鞄からグローブを出して向こうへ行った。そういや、店内でキャッチボールをするって言ってたな。不良Aはあっちのエースみたいだから腕前を見せつけるつもりか。案の定、不良Bを座らせた不良Aは投球モーションに入った。自信があるようだからそれなりにできるのだろう。と、思ったら、それなりどころではなかった。うちの野球部のエースなんて比べものにならない。かなりの豪速球だ。彼から投げられたボールはキャッチャーの顔面に命中してキャッチャーの鼻と歯を何本かを潰した。キャッチャーはグラッと後ろに倒れた。なんて奴だ。わざとキャッチャーに当てる事で僕らを威嚇してるんだ。
「何?自信たっぷりに投げたと思ったら全然はずれじゃん。ねえ、こういうのなんて言う?」
え?僕?ええと…。
「ノーコン…」
「正解。とんでもないノーコンピッチャーね」
……なんてことを。不良Aのこめかみがピクピクってなってるじゃないか。やばいな、ここは獄悪高校のたまり場らしいから揉め事は避けないと。
「いい度胸しているじゃねえか。帰ったら全員に伝えろ。試合を楽しみにしてろってな」
「あの程度の腕前じゃ楽しめるとは思えないけど…ちょっと、何すんの!?」
これ以上はマジで揉め事になると判断した僕はみちるの腕を無理矢理引っ張ってゲーセンを後にした。翌日、そのことをうちの野球部に伝えると。
「「「な、なんてことを!!」」」
僕は知らないからね。